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よくわからない

7月20日(水)

19時から、《ビリー・バッド》。

主な配役は、
Vere ・・・ J. Daszak
Billy Budd ・・・ N. Gunn
Claggart ・・・ Ph. Ens
Dansker ・・・ D. L. Williams
Squeak ・・・ A. Mee
で、指揮は K. Nagano 、演出は、 P. Mussbach 。

はじめて観るオペラだし、ブリテンの音楽もほとんど聴いたことがないので、「音楽史跡とオペラの旅」というホームページ(リンクフリーとあった)を参考にして、筋を追いなおしたりしてみた。

でも、やっぱりよくわからない。なぜ、バッドという天真爛漫な男は、死ななければならなかったのか?

Budd という名前から、仏教に関係した話かともおもったが、そうではなさそう。どちらかというと、キリスト教の匂いがする。ヴィアがバッドを見殺しにするところなど、ピラトを連想させるではないか。しかも、バッドは、外から、「人間の権利」という新しい思想をもちこんだ。これは新約に通じる。そうすると、バッドを憎むクラッガートは、旧約の世界を代表する人物か? さらに、バッドは、自分を助けてくれなかったヴィアを救済して昇天する・・・。ぜひ、メルヴィルの原作を読みたいところ。
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演奏は、いつもどおりのすばらしいもの。とくに、オーケストラの奏でる弱音の繊細さと、合唱の迫力には驚嘆。歌手のなかでは、ヴィアとクラッガートの声がよくのびてきたようにおもう。クラッガートは、まさに悪役といった声で、憎らしかったのだが、頭をしたにして階段から落ちたのにはおどろいた。安全装置のようなものはあるだろうけど、すこし心配。

演出も、舞台を目一杯つかって、閉じられた世界をうまく表現していたとおもう。
# by kalos1974 | 2005-07-21 09:09 | オペラ

うそっ!!

7月20日(水)

昨日、クルト・モルのリサイタル会場で、《冬の旅》の CD を売っていた。とてもほしかったのだけれど、所持金が10ユーロしかなくて、妻に、「お金貸して」といったら、説教されてしまって、・・・、断念。そこで、今日の夕方、 Ludwig Beck の4階へ。すこしさがしてみたが、見つからない。店員さんに訊くも、「ないねえ」という素っ気ない返事・・・。

そういえば、劇場のちかくに小さな CD屋があった。声楽関係が充実していたなあ。《ビリー・バッド》の開演まで、まだ30分以上あるし、寄ってみるか。
うそっ!!_e0021850_8221392.jpg
裏道をとおって、 "Zauberflöte"というお店へ。

若い店主に、「クルト・モルの歌った《冬の旅》はありますか?」と尋ねると、「それはないけど、シューベルト歌曲集ならありますよ」といって薦めてくれる。そこで、その CD "Schubert Lieder für Baß"を購入(ORFEO, C021 821 A)。

訊かれるままに、昨日のリサイタルの感想など話していたら、店主が、急に、「そとにモル氏がいますよ」という。「は? なにを訳のわからないこといってるんだ? 」とおもいながらもふりむくと、なんと、ほんとにクルト・モルがいる! このお店のショーウインドウをのぞいてる。「挨拶できますね」といわれるまでもなく、ダッシュ(笑。

買ったばかりの CD をもったまま、「昨日のリサイタルにいきました! 感激しました」と声をかけると(おいおい、挨拶くらいしろよ)、「ありがとう。あなたは声楽家ですか?」だって。うわぁー、あの声だよ・・・。

私:「いえ、ミュンヘン大学で○○を勉強してます」。
M:「そうですか、よい滞在となりますように」。
私:「ありがとうございます。音楽が好きなんです。で、今日はオペラなんです」
M:「ああ、《ビリー・バッド》ね。楽しんできてください。では、さようなら」
私:「さようなら」

モル氏は向かいの居酒屋(というか、バーというかレストランのようなお店)へ。たったこれだけの会話だけど、ドキドキドキ。いそいでおられたでしょうに、突然日本人に声をかけられて驚かれたでしょうに、無視しないでくださって、ありがとうございました。

練習着なのか、ジャージみたいなものを着てたが、風格のあるおじさんだったなあ。おもっていたほど、背はたかくなかった。

信じられない。昨日の今日、しかも、 CD を買ったところに、本人が現われるなんて・・・。

そういえば、いまおもいだしたのだが、 CD 屋のご主人に「ありがとう」も、「さようなら」も、いってなかった(苦笑。
# by kalos1974 | 2005-07-21 06:48 | 日記

クルト・モルのリサイタル

7月19日(火)

20時から、プリンツレーゲンテン劇場 Prinzregententheater で、クルト・モル Kurt Moll のリサイタル。ピアノはシュテファン・イルマー Stefan Irmer 。

今日は、お昼すぎまでよい天気だったのに、夕方から雨。しかも、ときにはげしく降る。ミュンヘンは、このところ、雨が多く、最高気温も25度くらい。こうなると、6月の35度がなつかしい(笑。
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地下鉄で3分。劇場についたころ、雨はあがった。

今日のリサイタル、クルト・モルの人気と実力がよくわかるものだった。モルが舞台に現われるやいなや、万雷の拍手。ものすごい歓迎ぶり。3分くらいつづいただろうか。ミュンヘンっ子に敬愛されている人。

曲がはじまると、左右から、やわらかな声につつまれた。どうしてだろう? とにかく不思議な経験。それはともかく、モルは、オペラのときと同じ、余裕の歌唱。ふつうに語っているふうにしか見えなくても、歌が生まれる。高音をたなびかせたかとおもうと、つぎの瞬間、低音を響かせたりして、まったく自由自在。前半は、とくにシューマン R. Schumann で、深い森のような、あるいは、とうとうと流れる大河のような声が印象的だった。

休憩のとき、外に出たら、劇場が夕日に染まっていた(21時ごろなのですが)。
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劇場のまわりをそぞろ歩いている人たちの口から出るのは、「すごい super!」とか「すばらしい toll!」とかいった言葉ばかり。まったく同感。

後半のレーベ C. Loewe は、おどけた歌詞を、軽く巧妙な語り口で歌い、滑稽な雰囲気を醸し出していた。エンターテイナーとしても、一流。しかも、単に「おもしろい」だけではなく、そこに、なにか人生の悲哀のような彩りまでそえるのだから、やはり、ただものではない。

私が生まれたときには、すでに、バイロイトやザルツブルクで活躍していた人が、いまだに、ものすごい歌唱を聴かせることに驚嘆した。バイエルン、ハンブルク、ウィーンの宮廷歌手 Kammersänger という称号はダテではない。ピアノのイルマーという人も、見事にモルを支えていたし、表現力も実に豊かだった。

演奏がおわると、ホールがうなるほどの拍手。聴衆は総立ち。ものすごいことになった。ミュンヘンの聴衆があんなに興奮するのはめずらしい。
# by kalos1974 | 2005-07-20 18:38 | 演奏会

最後の例会

7月18日(月)

英国式庭園 Englischer Garten の中国塔 Chinesischer Turm へ。19時30分から、某財団の例会。8月はおやすみなので、私たち夫婦が参加するのは、これで最後になる。

豪雨のせいか、ドタキャンした人が多く、参加者は5人だけ。でも、お蔭で、じっくり話をすることができた。料理も、前回はひどいものだったが、今日はとてもおいしかった。お客がすくないせいだろうか・・・。
結婚したてのカーリンにささやかなプレゼントを渡したら、とても喜んでくれた。カーリン夫婦は、9月から一年間の予定で、ワシントン勤務になるらしい。「今度会えるのは、来年の9月だね」といって別れた。
# by kalos1974 | 2005-07-18 23:20 | 日記

“TAKING SIDES“ 1

7月18日(月)

なおさんが教えてくださった“TAKING SIDES“という映画(DVD)を観た(7月9日、映画のサイトはこちら)。20世紀最高の指揮者といわれるヴィルヘルム・フルトヴェングラー Wilhelm Furtwängler の「非ナチ化裁判」を題材にした映画。内容をわすれてしまわないうちに、感想を書いておきたい。しかし、そのまえにまず、フルトヴェングラーとナチとの関係についてふれておこう。

周知のことだとおもうが、フルトヴェングラーは、一度も、ナチ党に所属したことはない。この点でまず、カラヤンのように、積極的にナチにくわわった人物とは区別されなければならない(カラヤンは、1933年4月、当時ナチが非合法だったオーストリアで入党し、さらに5月には、ドイツ国内でもナチ入党の手続きをとっている)。しかも、フルトヴェングラーは、ナチの藝術政策に対して、終始、反対の立場をとりつづけたのだから、「非ナチ化裁判」自体、ある種の「ガス抜き」のためにおこなわれたという見方さえある。

ヒトラー政権が誕生したのは、1933年1月。同年3月、フルトヴェングラーは、ベルリンで指揮。演奏終了後、ヒトラーが指揮者のもとに歩み寄り、手をさしだす。握手を拒むのは失礼だろう。だが、このときの写真が宣伝につかわれ、その結果、後年、フルトヴェングラー=親ナチというイメージが、生まれてしまった。しかし、この時点で、ナチ政権がどんなことをはじめるか、洞察していた人が、どれほどいただろうか。

ナチの音楽政策がだれの目にも明らかになったのは、1934年。ナチは、ヒンデミットのオペラ《画家マチス》をはげしく攻撃した。これに対し、フルトヴェングラーは、このオペラを題材とした交響曲《画家マチス》を初演し、さらに、新聞紙上で、ヒンデミットを擁護する意見を公開した。当然、ナチに睨まれることになったフルトヴェングラーは、抗議の意味をこめて、すべての職を辞し(ちなみに、辞職したフルトヴェングラーの代わりとしてやってきたのは、クレメンス・クラウス)、国外に出ようとしたが、パスポートが発行されず、断念。

ナチは、フルトヴェングラーの利用価値(宣伝効果)を知っていたから、多少の譲歩をしても、この指揮者を国内にとどめておきたかったようだ。フルトヴェングラーのほうも、自分がいなくなれば、オーケストラが破綻することはわかっていたので、ドイツにとどまったらしい。それに、たとえ嫌な相手からであっても、ドイツ一の音楽家ともてはやされて、わるい気もしなかっただろう・・・。「自由な人間として藝術だけに奉仕する」というコメントを出して、音楽活動を再開。その結果、ベルリン・フィルは財政的援助をうけ、オーケストラのユダヤ人に危害がおよぶこともなくなった。しかし、これを「宥和」と見る人も、当然いる。

1936年のニューヨーク・フィルからの藝術総監督就任依頼も、フルトヴェングラーにとって、気の毒だった。この依頼をアメリカの新聞はすぐに報じた。そして、それを見たゲッペルスは、ただちに、「フルトヴェングラーが、ベルリン国立歌劇場総監督に復帰する」と発表。このとき、エジプトにいたフルトヴェングラー本人は、完全に蚊帳の外。ちなみに、1934年7月にプロイセン枢密顧問官に任命されたときも、事前に本人の承諾はまったくなかったらしい(「任命したから」でおわり)。さて、独米間のやりとりを見たフルトヴェングラーは、「面倒なことになってきた」とおもったのか、ニューヨーク・フィルに対し、「政治に巻き込まれたくない」と返事。これが、アメリカ人に、フルトヴェングラー=親ナチの印象を植えつけることになってしまった。

1938年、ナチはオーストリアを併合。ウィーン・フィルを解散させようとした。フルトヴェングラーはこれに反対。頻繁にウィーン・フィルとの演奏をつづけた。1939年になって、ヒンデミットやヴァルターなどのユダヤ人は亡命したが、「純アーリア人」のフルトヴェングラーはドイツにとどまる。そして、戦争勃発。フルトヴェングラーは、楽団員の徴兵免除のためにはたらいたり、強制収容所に送られそうになった多くのユダヤ人を助けたりした。占領地での演奏は拒否しつづけた。1945年1月、自分の逮捕状が用意されていると聞き、ついにスイスへ脱出。

以上が、フルトヴェングラーとナチとの関係のあらまし。で、映画は、この人物が、ドイツにとどまったことの意味を描こうとしていた。偉大な藝術家、しかも、宣伝効果をもった人物が、全体主義国家にのこるというのはどういうことなのか、政治と藝術は、はたして無関係でいられるのか、そうしたことが、テーマだったようにおもう。

(つづく)
# by kalos1974 | 2005-07-18 23:14 | すこしまじめな考察