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ルイージって・・・

7月7日(木)

18時30分から、《運命の力》。

主な配役は、
Calatrava ・・・・・ S. Humes
Leonora ・・・・・ V. Urmana
Carlo ・・・・・ M. Delavan
Alvaro ・・・・・ F. Farina
Preziosilla ・・・・・ D. Peckova
Guardiano ・・・・・ K. Moll
で、指揮は F. Luisi 。

昨日とオーケストラの響きがちがう。明らかに熱量がたかい。しかも、単にエネルギッシュなのではなく、とてもはかなく、哀切きわまりない音も奏でる。とても深い「木の響き」だ。ルイージという人、以前このオケをふったときに、とても見事な演奏を聴かせてくれた(5月24日。そのときの感想をトラックバックしておきます)ので、それ以来気になっている。私が知らなかっただけで、実は、すごい指揮者なのかもしれない。音楽にくわしい友人が、「メータの後任は、ムーティーか、ルイージだったらよかったのに」といったときには、「おいおい」と思ったが、いまなら、素直に肯ける。ドレスデンの聴衆は幸せだなあ。

歌手では、レオノーラが出色。優柔不断なお嬢さまの甘え、すべてを捨てなければならなくなった悲痛な叫び、安息をもとめる祈り。この人物のさまざまな面を、しっかり歌い分けていた。第四幕では、自分の運命を悟り、それを静かに受け入れようとする、どこな高貴な風情まで、聴かせてくれた。 Urmana は、ひとりの女性が成長していくさまを、歌いきったと思う。アルヴァーロ役の Farina も、Urmana に負けない立派な歌唱だった。このふたりの二重唱を聴いて、いまさらながら、「イタリア・オペラもいいものだなあ」と思ったりする(笑。もうひとりの重要人物、カルロは、誘惑にまけて友人の秘密をのぞいたりするくせに、名誉(家名)のことで頭が一杯という、すこし複雑な人物。この役を歌うのは大変だろう。しかも、アルヴァーロと「声の決闘」をしなければならない。 Delavan は健闘していたが、レオノーラやアルヴァーロとくらべると、やや歌が粗いし、声が客席までしっかりとどいてこなかった。本調子ではないクルト・モルの声が、ちょっとしたつぶやきでも、しっかり聴こえたのとは対照的だった。
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演出も、昨日とは打って変わって、まともなもの。場面転換も第三幕と第四幕のあいだが途切れた以外、スムーズだった。ところで、第三幕の野営地の場面。セット(とくに貨車)が、強制収容所を連想させて、背筋が冷たくなった。でも、ほかの聴衆はとくに目立った反応をしていなかったので、気のせいかもしれない。
# by kalos1974 | 2005-07-07 20:49 | オペラ

猿の惑星

7月6日(水)

今日は、19時から、《リゴレット》。

幕が開くと、うしろの人が "schrecklich (ひどい)"、となりの人が、"unglaublich (信じられない)"と叫んだ。つぶやいたのではない。叫んだ。

聞いてはいたが、ほんとうに、「猿の惑星」そのままの舞台じゃないか。剽窃もいいところ。しかも、こういう演出にした必然性が分からない。もちろん、いくらでもこじつけられるけど、台本や音楽を虚心に解釈した結果とは思えない。許可した人のセンスまでうたがう・・・。

第一幕がおわったとき、となりの人が、「こりゃだめだ」という顔をして、こっちを見るから、「でも、歌手はいいですね」と、いらんことをいったら、休憩の間中つきまとわれた・・・。よほど、だれかに文句をいいたかったらしい。私も、「この演出は、作品に何の貢献もしていない」と思ったので、とりあえず、"Diese Inszenierung leistet keinen Beitrag zu Verdis Werk"といったら、通じたらしくて、おじさん、だんだんエスカレート。「最近の演出は、オペラを分かっていない。ミュンヘンはもうおわりだ」なんて極論まで飛び出したけど、分からなくもない。そういえば、《後宮からの逃走》も、ひどい演出だった・・・。今日、休憩のときに、かえる人がいなかったのは、ひとえに、演奏がすばらしかったから。

主な配役は、
Mantova ・・・・・ J. Calleja
Rigoletto ・・・・・ P. Gavanelli
Gilda ・・・・・ D. Damrau
Sparafucile ・・・・・ A. Kotscherga
Maddalena ・・・・・ E. Maximova
Giovanna ・・・・・ H. E. Minutillo
で、指揮は、 Z. Mehta 。

歌手では、ジルダとリゴレットがすばらしかった。 Damrau は、どこにも力の入っていない自然な歌いかたなのに、よく通る声。見た目もわるくないし、ジルダにぴったり。 Gavanelli も、リゴレットの、いやらしい面から父親のやさしさまで、堂々と歌いあげていた。大したもの。第三幕の最後の場面では、思わず、涙が出そうになった。それにしても、このふたりの二重唱の見事なことといったら・・・。
マントヴァもわるくなかったけど、すこし波があったかもしれない。公爵の「天然さ」もいまひとつ出ていなかった気がする。でも、第三幕の四重唱は、文句なしに、よい出来だった。
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これだけすばらしい演奏になったのは、なぜだろう? ひょっとしたら、演出があまりにひどいので、歌手たちが奮起したのかもしれない。だとしたら、今日の演出、「ヴェルディの作品に多大な貢献をした」ことになる。
# by kalos1974 | 2005-07-06 20:56 | オペラ

映画みたい

7月4日(月)

17時ごろだったか、妻が、一緒に"MiniMal"(スーパー)にいこうという。荷物もちをご所望らしい。私は、ちょうど、明日の予習をしていたので、生返事。

そのうち、部屋のなかがくらくなってきた。数分後、空には稲光が。風も吹きはじめた。嵐の来襲だ。
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くらくなりはじめたとき、北北東の方角を撮った。白黒映画の《ファウスト》の冒頭を思い出す黒雲。もくもくもく。写真右下、 Johanneskirchen と Unterfoehring の間にあるゴミ焼却場(?)の煙突には、よく雷が落ちる。

妻が声をかけたときに出かけていたら、ふたりともずぶぬれになったにちがいない(笑。

さいわい30分ほどで雨はあがり、青空がもどった。


<追記>
「訪問者」数が3,000名を越えた。「ランダムブログ」からこられた方が1,000名ほどおられた模様。そのうち、だいたい、100人にひとりの方が、コメントを残してくださった。ドイツやクラシック音楽に興味をおもちの方は、案外多い?
# by kalos1974 | 2005-07-04 21:42 | 日記

たまに藝術について考えてみる 2

カント Immanuel Kant (1724-1804) は、美しいものを見極める能力について考えている。『判断力批判』(1790)から引用する(B16, Philosophische Bibliothek 507, S. 58)。

„Geschmack ist das Beurteilungsvermoegen eines Gegenstandes oder einer Vorstellungsart durch ein Wohlgefallen oder Missfallen ohne alles Interesse. Der Gegenstand eines solchen Wohlgefallens heisst schoen“(„Kritik der Urteilskraft", B16)

カントがここでいっているのは、
1.趣味は、ある対象、もしくはイメージ(表象)の仕方を判定する能力だということ。
2.判定は、心地よさ(適意 Wohlgefallen)をつうじておこなわれるということ。
3.この判定は、一切の関心(所有欲、Interesse )を欠いているということ。
3.心地よさを喚起する対象は美しいといわれるということ。
の4点。

とりあえず重要なのは、カントが、「私の趣味によって、あるものは美しいといわれたり、別のものは醜いといわれたりする」と考え、美しいものを判定する能力を、趣味と名づけたこと。

趣味と訳される „Geschmack“は、フランス語だと „gout“ 、英語だと „taste“ 。つまり、もともと、「味覚」のこと。われわれは、なにかを口にいれて、おいしいか、まずいか、判定する。そうした直接的な判定が、あるものを美しいと感じるときにも働いている。そう、カントは考えたわけだ。

では、味覚とはどんな感覚なのだろう。もちろん、ものの味を判定する感覚。だが、味を判定するためには、舌のうえになにかがのっていなければならない。味覚が働くまえに、口のなかに食べ物があることを、直接的に感知する能力が必要である。そうした能力とは、触覚にほかならないのではないか。


(つづく)
# by kalos1974 | 2005-07-04 21:23 | すこしまじめな考察

たまには藝術について考えてみる

ふじさんのブログで、音楽と文学の関係についてふれてあった。グスタフさんが、蕪村とシューベルトの親縁性について書かれた考察をひきついで、蕪村の魅力が紹介されていた。

音楽と他の藝術ジャンルの関係といえば、私の場合、絵画を思いうかべることが多い。モーツァルトの音楽を聴いて、ラファエロの聖母子像を思い出したり、シューベルトの音楽を聴いて、等伯の屏風絵を連想したりする。でも、どうして、そんなことがおこるのだろう。

もちろん、音楽も絵画も藝術なのだから、類縁性があるのは当然。主として、音楽は聴覚にうったえ、絵画は視覚にうったえるけれども、決してひとつの感覚だけに還元されるものではないし*、藝術と呼ばれる以上は、どこか似ているはず。そもそも似ていなければ、藝術としてひとくくりにはされない。では、どこが似ているのだろう。

音楽の絵画性、絵画の音楽性といったことは、当然、問われうるテーマである。シェリング Friedrich Willhelm Schelling (1775-1854) だったか、建築を「凍れる音楽」と評した人もいた。この言葉は、音楽と建築というジャンルの類縁性を下敷きにしている。また、「すべての藝術は、音楽にあこがれる」といったのは、Arthur Schopenhauer (1788-1860) だったろうか。この場合は、諸藝術のめざすべき形態として、音楽が念頭におかれている。まったく関係ないものにあこがれることはできないから、ここでもやはり、藝術のあいだの類縁性が前提されていることになる。

いま紹介したふたつの言葉、とくに前者は、根源的な藝術として、音楽を考えている。シェリングにとっては、建築が凍るまえに、音楽が存在していた。他の藝術ジャンルも、音楽から派生したものと捉えられている可能性がある。音楽はもっとも根源的なジャンルなのだろうか。そうかもしれない。たしかに、音楽こそは、形式と内容とが渾然一体となった根源性をもっている。さらに、言葉もまた、音声から成り立っている。ギリシアの詩は、朗誦されたものだった。文学は、音楽によりかかっているといえなくもない。

だが、ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegel (1770-1831) のように、音楽を、藝術のある程度発展したかたちと見なした人もいた。それによると、音楽は、象徴的藝術、古典的藝術にひきつづくロマン的藝術に分類されている(Vgl. „Vorlesungen ueber die Aesthetik“, Suhrkamp 613, S. 111 u. S. 121)。

音楽と絵画、どちらが根源的なのだろう。いいかえると、聴覚と視覚のどちらが根源的な感覚なのだろうか。いままで挙げた例からすると、どうやら、聴覚のほうが視覚に先んじていると見なす人が多いようだ。カンディンスキー Wassily Kandinsky (1866-1944) のように、作品を制作する際に、音楽を意識していた画家や、ホイッスラー James Abbott McNeill Whistler (1834-1903) のように、自作に音楽にまつわる題名をつけた画家もいる。

でも、絵画を観ていて、音楽が流れてくるなんてことはないだろうか。たとえば、モネを観て、どこからか、やわらかなピアノの音が聞こえてくるなんてことは。もし、そういうことがあるとすれば、(すくなくとも、私には経験がある)、音楽の根源性は、見直されなければならない。

音楽を聴いて特定の絵画を想起する。あるいは、絵画を観て音楽を連想する。こうした事態が意味するのは、おそらく、音楽と絵画が、ある共通の基盤のうえにあるということだろう。音楽と絵画が、まったく別の領域にあるなら、両者のあいだに、類縁性は成立しない。だから、このふたつの藝術ジャンルは、共通の基盤のうえに存在しているはず。そして、この基盤が担っているのは、聴覚や視覚といった感覚だから、やはり、感覚でなければならない。つまり、諸藝術の類縁性を成り立たせている感覚、聴覚や視覚の土台となる感覚があるはず。さらに、この感覚、基盤なのだから、他の感覚よりも、根源的でなければならない。すなわち、私の素朴な疑問は、「藝術と呼ばれるものが依拠している根源的な感覚はなんだろう」という問いになる。

*らぷさんのコメント(7月3日)を参照。


(つづく)
# by kalos1974 | 2005-07-04 20:24 | すこしまじめな考察