グリル・マルヨシ

11月12日(土)

週に一度、天王寺で乗り換えることになって、まずさがしたのは、おいしいものを食べさせてくれるお店。ちょうどお昼すぎにとおるので、手軽なランチを食べさせてくれるところを見つけたい。

天王寺。東京でいえば、上野か浅草の雰囲気だろうか。お世辞にもきれいな町とはいえないけれど、昭和の風情が色濃くのこっている。そぞろ歩くのがたのしい。しかし、そんな町のあちこちにも、最近、あいついで高層マンションが建てられている。

このお店は偶然見つけた。お金をおろしに入った駅前の銀行のまえにちいさな路地。路地の入り口には「石炭ストーヴでつくるフランス料理」という看板が出ている。ランチは1,200円だという。少々たかいけど、面白そうなので、入ってみた。

お店は、まさに下町の洋食屋さん。「フランス料理」を謳っているが、メニューを見ても、ポークカツ、ビーフカツ、オムライス、ロールキャベツなど、洋食の基本がずらり。近所のおじさんたちが世間話をしながら、あるいはスポーツ新聞を片手に、ハンバーグなんかを食べている。

1階はカウンター席のみ。カウンターの向こうはすぐ厨房。看板の石炭ストーヴのまえで、4~5人のコックさんたちが、いそがしそうに働いている。よくぶつからないものだ。せまい店内に、皿洗いや会計のおばさんもあわせると、5~6人の従業員がひしめいている。

はじめていったときに食べたのはランチ。ポークカツとハンバーグの盛り合わせだった。「これはすごい!」ともおもわなかったが、丁寧につくられているのはわかった。カツをあげた油がいい香り。

うちにかえってからインターネットでしらべると、それなりに有名なお店らしい。1946年創業。ロールキャベツが名物とあったので、二度目にいったときは、それをたのんだ。しかし、評判倒れ・・・? キャベツは繊維が硬いうえに、水っぽい。いまは、キャベツのおいしい季節ではないのかもしれない。

洋食屋さんで好きなのは、ドミグラス・ソース。ハンバーグにかかっていたソースも、ロールキャベツにかかっていたソースものこしたくない味だった。というわけで、三度目に食べたのはハヤシライス。これにはかなり満足できた。くどくなく、甘すぎない。すこし苦味を感じるのは、たぶん、関西風。芳ばしい香りと、まろやかな味。石炭ストーヴの魔力だろうか。さっと炒めたタマネギも、シャリシャリ感がのこっていて上々。

「フランス料理」のお店なので、夜はコース料理も出しているようだ。でも、どちらかというと、カツレツや、ドミグラス・ソースをつかった料理を、気どらずに食べるほうが、お店の雰囲気に合っているとおもう。


コメント(10)
トラックバック(0)
[PR]
# by kalos1974 | 2005-11-12 17:29 | 食べもの・飲みもの

「最高の演奏」

11月11日(金)

音楽にくわしい人からある CD を薦められて、店頭では手に入りにくいそうなので、 HMV のホームページで検索して、注文したところ。

HMV のホームページは、まえに一度訪れたことがある。そのとき、いろんな人の書いている CD 評を見て、好き勝手な意見が多いので、「ここはあまりのぞきたくないな」とおもった。今日あらためて読んでみて、やはり、つかれた。

まず違和感を感じるのは、「これ以上の演奏はない」、「これさえあればほかの CD は要らない」といった書き込み。ほんとうに、そんなことがいえるのだろうか?

素朴な疑問だが、「これが最高の演奏だ」といいきれる人は、何回コンサートに通い、何種類の CD を聴いたのだろう?

たとえば、ふじさんが最新の記事でとりあげている K. 551 の交響曲、私の手許には、いま、14種類の CD がある。

べーム/ベルリン・フィル
べーム/ウィーン・フィル
クレンペラー/フィルハーモニア管弦楽団
シューリヒト/ウィーン・フィル
アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団
ワルター/コロンビア交響楽団
セル/クリーヴランド管弦楽団
ヨッフム/ウィーン・フィル
ブロムシュテット/シュターツカペレ・ドレスデン
クーベリック/バイエルン放送交響楽団(スタジオ)
クーベリック/バイエルン放送交響楽団(ライヴ)
ヴェーグ/カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク
テンシュテット/北ドイツ放送交響楽団
スイトナー/シュターツカペレ・ベルリン(日本公演、ライヴ)

このなかで、「どれが最高の演奏か?」と訊かれても困る。いちばんよくかけるのはセルだけど、「最高」かどうかはわからない。

そもそも、藝術において、「最高」ということがいえるだろうか?

もちろん、いいものはいいし、わるいものはわるい。だが、ある一定のレヴェルを超えた演奏のなかで、どれが「最高」なんだろう? 一番よい演奏を決めることなんてできるのだろうか? 「最高」がいくつかあってもよいのが、藝術の世界なんじゃなかろうか? もしそうだとしたら、「これ以外は要らない」とは書けないはずだ。

演奏にケチをつけている人もいる。だが、非難する人は、なぜそういう演奏が生まれたのか、考えているのだろうか? 今日読んだかぎりでは、演奏者の意図にまで踏み込んで批判している人はいなかった。

権威をもちだしている人もいる。たとえば、「フルトヴェングラーにくらべると、精神性がたりない」といった類のもの。おいおい、「精神性」ってなんだよ? そんな曖昧なことをいわれても、フルトヴェングラーは困惑するだけだろうに・・・。

最後に。一番気になったのは、私もよくやるのであまり書きたくないけど、「よい」、「すばらしい」、「きれい」といった表現。読むほうは、当然、「どのようによくて、どれくらいすばらしくて、なぜきれいなのか」を知りたい。だが、そういうことは書かれていない。だいたい、「○○の演奏はいいです。これ一枚あればほかは要りません」という評があり、そのうえに、「これはひどい。クナッパーツブッシュがいぜんベストといわざるをえない」などと反論してある。私には、どちらの意見も信用しにくい。

クラシック音楽が好きなのはわかる。自分のもっている CD のよさを伝えたいのもわかる。けれど、やはり、すこし独りよがりなのではないか?

さて、私。ここに、 CD や DVD の感想を記している。もちろん、客観的に批判しようなどとはおもっていない。印象が変わることもあるのだから、そんなことは無理。あくまでも、そのときの、私の、感じたことを書いているだけ。しかし、そうはいっても、もっと、藝術というものについて考えたうえで書かないと、演奏者にも、読んでくださる方にも、失礼ではないだろうか。他人の CD 評に悪態をつきながら、そんなことをおもった。


コメント(27)
トラックバック(0)
[PR]
# by kalos1974 | 2005-11-11 17:09 | 毒(いいたい放題)

「責任」の欠如

11月7日(月)

昨日は京都で研究会。ずいぶんご無沙汰してしまった先生方と再会。ある先生に「日本には慣れた?」と訊かれたので、正直に、「西欧は罪の文化といわれ、それがまだ生きています。『神さまがごらんになっているから』といって、自分を律している人が多いです。日本は恥の文化といわれますが、恥をかくことに抵抗を覚えない人が増えました。むかしは、『世間に顔向けできない』なんていう言葉もありましたけど、いまは『世間』が機能していないですね。なんでもありの国におもえます」といったら、「日本は責任をとらない社会やから」と、靖国の話をされた。

先生と私の意見はほぼおなじ。

十五年戦争で日本だけがわるかったとはおもえない。東京裁判で正義がおこなわれたともおもえない。

しかし、では、誰があの戦争に責任があるのか? なぜ300万人以上が殺されるようことになったのだろう? 日本人が、戦争指導者を、自分たちで裁いたことがあっただろうか・・・? 東京裁判を非難する人たちも、この点になると、沈黙する。責任の所在はあいまいなまま。全体責任という人もいる。聞こえはいいが、要するに、だれも責任をとらないということ。

小泉「首相」の靖国参拝に近隣諸国から非難があつまっている。

念のために書いておくと、中国や韓国は、日本人が戦没者を慰霊することに対して文句をいっているのではない。戦争の被害者を悼む気もちは万国共通。両国といえども、そんなことに難癖をつけたりしない。

問題は、戦争指導者の合祀。日本は、サンフランシスコ平和条約で、東京裁判を国際的に受け入れた。つまり、戦争犯罪人をみとめた。A級戦犯たちによって、戦争が遂行され、おびただしい数の人間が殺されたことを反省したわけだ。

なのに、その責任者が神社に祀られ、首相が頭をさげる。

靖国に参拝したいのならば、まず、東京裁判を吟味しなければならない。そして、もし不満なら、自分たちの手で、「戦争がなぜ起こったのか?」、「責任者はだれなのか?」、「甚大な被害をあたえた国々にどう接していけばいいのか?」といったことに、答えていかなければならない。そのうえで、日本人の出した結論が国際的にみとめてもらえるように努力する必要がある。

そうした手続きをとらないで、いきなり、首相が戦争犯罪人を詣でる。「シュレーダーがヒトラーの神殿を参拝する」のとおなじくらいの衝撃を、世界にあたえていることに気づかないのだろうか? そんなことをしているのに、国連安保理の常任理事国に立候補したって、門前払いされるのが関の山だ。「理屈の通じない国には、拠出金だけお願いしたい」となるのは当然。

マスコミは、こんなごく当り前のことを報道しない。反日デモの激しさをとりあげて、われわれに妙な愛国心を植えつけたり、中国や韓国の歴史教育がおかしいとあげつらったりする。しかし、他の国に文句をいうまえに、自分の脇を固めておかなければ、どうしようもない。

「適当に頭をさげておけば水にながしてくれる」とか、「そのうちわすれてくれる」などという考えは、「罪の意識」も「恥の意識」もない国でしか通用しない。


コメント(41)
トラックバック(2)
[PR]
# by kalos1974 | 2005-11-07 17:06 | 日記

カラヤンとヒルトン

11月5日(土)

ふじさんによると、私はカラヤン嫌いらしいが、本人は、そうでもないとおもっている。

実家には、カラヤンのレコードが何枚かあったし、自分で最初に買った CD は、カラヤンの指揮するベートーヴェンだった。クラシックを聴きはじめた多くの人がそうであるように、私も、一時、カラヤンの CD ばかり集めていたこともある。しかし、いろんな人の演奏を聴きくらべるうちに、だんだん、カラヤンから離れていった。

もちろん、演奏のレヴェルが低いわけではない。ただ、とくにドイツ語圏の作曲家の交響曲などを聴くときに、「カラヤンでなければ」とおもわなくなっただけ。

そんなカラヤン、私のなかでは、なぜかヒルトン・ホテルと重なる。世界中どこにでもあるところが、どんな曲でも録音したカラヤンに似ているからだろうか。

ヒルトンといえば、それなりにステイタスがある。一流ホテルとして認知されているかもしれない。実際、とりあえずヒルトンに泊まれば、まず、不愉快なおもいはしないだろう。

しかし、どこのヒルトンに泊まっても、雰囲気はみなおなじ。最初のうちは安心するが、そのうち、つまらなくなってくる。いろんなホテルを利用するようになると、ヒルトンでは物足りなくなってくるのだ。

たとえば、シンポジウムかなにかで、大阪にだれか招くとして、私なら、ヒルトンを用意するだろうか? たぶん、伝統や格式を好む相手にはリーガロイヤル、明るく快適な客室を重視する人にはウェスティン、ブランド志向の先生にはリッツ・カールトンをえらぶだろう。

もしお金がたくさんあって、どこにでも泊まれるとしたら、ヒルトン・グループのホテルを利用するだろうか? 私はミーハーなので、ロンドンなら、クラリッジズやランガムに泊まってみたい。パリだと、ジョルジュ・サンクかル・ブリストル。ウィーンなら、シュヴァルツェンベルクやコーブルクかな。ヒルトンとおなじようにチェーンを展開しているグループでも、フォーシーズンズやウェスティン、インターコンチネタルのほうを優先したくなる。あるいは、ペンションに長期滞在というのもいい。

とはいえ、ヒルトンにもいろいろある。ここではヒルトンに泊まりたいとおもう町もある。まったく知らない土地にヒルトンがあると安心したりもする。

カラヤンもおなじ。ある種の曲はカラヤンで聴きたい。これはカラヤンがいいなあとおもう曲もある。けれども、そういう作品が、私の場合、なぜか、多くないのだ。嫌いというより、関心をうしなってしまったといったほうが正確かもしれない。


コメント(21)
トラックバック(0)
[PR]
# by kalos1974 | 2005-11-05 17:04 | 毒(いいたい放題)

うらやましいような、勿体ないような

10月31日(月)

帰宅すると、数年前、結婚式をあげたホテルから、情報誌がとどいていた。ほとんど利用していないのに、毎月おくってくれる。律儀なものだ。

いつもなにか案内が同封されているのだが、今回は、「モーツァルト生誕250周年記念 欧州音楽の旅8日間」というパンフレット。

日程は、

1月22日(アムステルダム)
ラトル指揮ベルリン・フィル演奏会

1月23日(ウィーン)
《フィガロの結婚》

1月24日(ウィーン)
《魔笛》

1月25日(ザルツブルク)
リンツとザルツブルク周辺観光

1月26日(ザルツブルク)
ムーティー指揮ウィーン・フィル演奏会による祝賀演奏会
ソリストは、T. ハンプトン、内田光子、G. クレーメルら。

というもの。

宿泊するホテルもそれなりのところばかりだし、飛行機はビジネス・クラス。「いいなあ、お金があったらいきたいなあ」とおもって値段を見ると、1,180,000円! なんだあ、桁がちがうぞ。たった8日間の旅行に百万円とは・・・。

正直、自分で手配すれば、半額以下でいけるとおもう。そのほうがきっと楽しいだろうし。

それにしても、不況といわれてひさしいけど、世の中には、こういうツアーに気兼ねなく参加できる人もいるんだよねえ・・・。
[PR]
# by kalos1974 | 2005-11-01 16:01 | 日記

センチメンタルな強さ

10月30日(日)

TV はいつものようにつまらないし、クラシック音楽をかける気分でもなかったので、ひさしぶりに、エディット・ピアフ Edith Paif の CD を聴いた。

《あなたの目より青い Plus bleu que tes yeux》では、「あなたの目より青いものはない。あなたの髪より黄金に輝くものなんてない」と歌う。

真実はちがうとわかっていながら、愛する人以外を見ることができない。そんな一途な思いを、ピアフは、伸びやかに、そして繊細に、不安そうに歌いあげていく。

マルセル・セルダン Marcel Cerdan の死をきっかけとして生まれたといわれる《愛の賛歌 Hymne a l'amour》。

「あなたがのぞむなら、髪をブロンドにしてもいい、月をとりにいってもいい、財宝を盗んでもいい、祖国を捨ててもいい、友だちを捨ててもいい、嗤われたって平気、なんでもしてみせる」。

儚さや危うさも感じさせるが、やはり、一途な思いにみちている。怖いくらいの一途さが、強さとなって、棘のように刺さってくる。

ピアフは、女のかわいらしさから強さまでを、これ以上なく、切実に歌いきっている。そこには、なんの隠しごともない。歌に、自分のすべてがぶつけられている。赤裸々すぎて、たじろぐくらい。ここまで歌える人がいたんだ。

ふだんは、クラシックばかり聴いているけど、今日は、ひさしぶりに、「他の分野の音楽も聴かないと勿体ない」とおもった。
[PR]
# by kalos1974 | 2005-11-01 15:59 | 日記

立ったままお化粧をする女

らびさんにならって、かなりの毒舌と自覚した記事には「(毒)」をつけることにしました。偽りのない本音ですが、人によっては不快におもわれるかもしれません。


10月29日(土)

昨日、阪急神戸線で、立ったまま、お化粧をしている女性を見た。座って目の周りをいじっている女性は何度も見かけたけど、立ったまま睫毛に器具をあてているのは初めて。あれにはまいった。びっくり。危なくないのか。
e0021850_15581122.jpg
それにしても、車内でお化粧をしている女性に美人がいないのはなぜだろう。いままでのところ、例外はない。要するに、電車のなかでいじれる程度の顔だってことか。自分の顔に対して、思い入れのない輩が、人前でお化粧をしているということなのか。

美しい女性は、家で、念入りに顔の手入れをしているだろうし、そもそも、みっともない姿を衆人にさらすことには抵抗があるにちがいない。そうしたプライドが美人を美人たらしめているような気がする。たぶん、矜持が美人をつくっている。
[PR]
# by kalos1974 | 2005-11-01 15:54 | 毒(いいたい放題)

シューベルトのミサ曲、たぶん D. 950

10月24日(月)

さがしものをしていたら、なにもラベルの貼られていないカセット・テープが出てきた。さっそく聴いてみると、シューベルトのミサ曲《Es-Dur》だった。演奏者はわからないけど、響きはやわらかいのに、とても力強くて、劇的。きっと、名のある団体にちがいない。

私、音楽はもっぱら聴くだけ。楽器は子どものころに挫折したし、歌は音痴を自認している。なのに、以前、二度ばかり、合唱に参加したことがある。

素人の合唱団は、大人数のところでも、男声は、数えるほどしかいない。ミサ曲なんかをやる場合、女声ばかりだと、見た目からして、あまりにもバランスがわるい。そこで、「多少音がはずれてもいいから」といわれて、なかば強制的に、助っ人? をたのまれた。そのとき歌ったのが、この《Es-Dur》。テープは、たしか、「『ほんとうは』こういう曲なんだよ」といわれてわたされたもの。

この作品は、シューベルトの最高傑作のひとつではないだろうか。書かれたのは、1828年。亡くなる年の作品だからそう感じるのかもしれないが、底なしの湖をのぞきこむような怖さと厳粛さに身がひきしまる。はじめて聴いたとき、「なんとおそろしい音楽があるんだろう」とおもった。「ヨーロッパ人って、こんなにも孤独なのだろうか、こんなにも厳しく神と対面するのだろうか」と。

全体的に重くて、多少くどいかもしれない。ポリフォニックな響き、各パートの重層的な構造のためか、峻厳な感じをうける。しかし、たとえば「グローリア」には壮麗さとともに穏やかさがある。"Gratias agimus tibi propter magnam gloriam tuam" の部分、旋律は切ないのだが、どこか陽だまりにいるような暖かさ。また、「クレド」では、シューベルト一流の歌を聴くことができる。チェロの奏でる旋律は、甘く穏やか、敬虔にして高貴。なんという安らぎに満ちた音楽だろう。そして、チェロをなぞるように、テノールが歌う。"Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria Virgine ・・・" テノールがもうひとり、そしてソプラノがくわわった三重唱。さらに合唱。

「紅茶にひたしたマドレーヌ」ではないけれど、当時の記憶が鮮明によみがえった。

自分がかつて歌った? 曲なのに、なぜか CD を一枚ももっていなかった。そこで、 Amazon をのぞいたら、ジュリーニがバイエルン放送交響楽団を指揮したものがあったので、注文したところ。《ミサ曲第6番》というらしい。とどくのが楽しみだ。
[PR]
# by kalos1974 | 2005-10-25 10:14 | 日記

ホッキョクグマ

10月18日(火)

昨日から明後日まで、 NHK-BS で、クマ特集。昨日は、松山市のとべ動物園で人工飼育された、ホッキョクグマ「ピース」のお話。今日は、カナダ北東部で暮らすホッキョクグマの生態。いま放映されているところ。かわいくて目がはなせない。まいった。

写真は、愛媛県立とべ動物園のホームページから。
http://www.tobezoo.com/shiiku/peace/p_w/html/gallery.html#


コメント(12)
トラックバック(0)
[PR]
# by kalos1974 | 2005-10-25 10:13 | 日記

ブラームス《クラリネット五重奏曲》、ロ短調、作品115

10月17日(月)

ブラームスの《クラリネット五重奏曲》、私は、この曲の CD を三種類もっているけど、なぜか、三枚とも、モーツァルトのそれとあわせておさめられている。

「両者のちがいは、もう、どうしようもない。ブラームスの曲の、あの晩秋の憂愁と諦念の趣きは実に感動的で、作者一代の傑作のひとつであるばかりでなく、19世紀後半の室内楽の白眉に数えられるのにふさわしい。けれども、そのあとで、モーツァルトの五重奏曲を想うと、『神のようなモーツァルト』ということばが、つい、口許まで出かかってしまう」

吉田秀和の一文を読んで、なるほどとおもうと同時に、ブラームスのことがとても愛おしくなった。

1890年、亡くなる7年前のブラームスは、創作力の衰えを痛切に感じ、遺書まで用意した。そんな作曲家を救ったのは、クラリネットの名手ミュールフェルト。1891年、マイニンゲンで、この人の演奏する、モーツァルトやウェーバーの協奏曲を聴いたブラームスは、クラリネットのために作品を書くことを決意した。そのひとつが、この《クラリネット五重奏曲》。わずか2週間ほどで作曲されたという。

これは、たしかに、晩秋の音楽だろう。動くものをあまり目にしなくなった秋の夕暮れ。長く厳しい冬はもう目前。すっかり木の葉の落ちてしまった木々、ところどころ凍りかけている湖。そんな光景をながめながら、すぎさった季節をなつかしみ、いのちあるものを慈しむような風情。

曲想はさまざまに変化し、痛切な叫びや、あこがれを感じさせる箇所もある。だが、全体を支配するのは、吉田秀和のいうように、「諦念」。枯葉の色。モーツァルトやベートーヴェンにはかなわなかったけれど、天才たちと真っ向から立ち向かい、できるかぎりの仕事をなしとげた人間の境地かもしれない。

音楽からは、作曲家の表現意欲といったものを、あまり感じない。自然や人間に対するふかい省察を経て、あるものをあるがままに受け入れようとしているかのようだ。

この作品は、「神のようなモーツァルト」とは対照的だけれども、それに匹敵するようにおもう。ときに水墨画をおもわせる響きから、さまざまなイメージを連想させるには、モーツァルトなみの作曲技法が必要ではないか。モーツァルトが神の境地なら、ブラームスは、人間のみになしうるふかい省察と「諦念」。この、ふたつの傑作、やはり、一枚の CD におさめられるべきなのかもしれない。

さっきかけていたのは、ウィーン室内合奏団の演奏。ノルベルト・トイブルの柔らかな音色が魅力的。でも、私にとっては、ゲルハルト・ヘッツェルのヴァイオリンをなつかしむことのできる一枚。
[PR]
# by kalos1974 | 2005-10-17 18:43 | CD・DVD