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たまには藝術について考えてみる

ふじさんのブログで、音楽と文学の関係についてふれてあった。グスタフさんが、蕪村とシューベルトの親縁性について書かれた考察をひきついで、蕪村の魅力が紹介されていた。

音楽と他の藝術ジャンルの関係といえば、私の場合、絵画を思いうかべることが多い。モーツァルトの音楽を聴いて、ラファエロの聖母子像を思い出したり、シューベルトの音楽を聴いて、等伯の屏風絵を連想したりする。でも、どうして、そんなことがおこるのだろう。

もちろん、音楽も絵画も藝術なのだから、類縁性があるのは当然。主として、音楽は聴覚にうったえ、絵画は視覚にうったえるけれども、決してひとつの感覚だけに還元されるものではないし*、藝術と呼ばれる以上は、どこか似ているはず。そもそも似ていなければ、藝術としてひとくくりにはされない。では、どこが似ているのだろう。

音楽の絵画性、絵画の音楽性といったことは、当然、問われうるテーマである。シェリング Friedrich Willhelm Schelling (1775-1854) だったか、建築を「凍れる音楽」と評した人もいた。この言葉は、音楽と建築というジャンルの類縁性を下敷きにしている。また、「すべての藝術は、音楽にあこがれる」といったのは、Arthur Schopenhauer (1788-1860) だったろうか。この場合は、諸藝術のめざすべき形態として、音楽が念頭におかれている。まったく関係ないものにあこがれることはできないから、ここでもやはり、藝術のあいだの類縁性が前提されていることになる。

いま紹介したふたつの言葉、とくに前者は、根源的な藝術として、音楽を考えている。シェリングにとっては、建築が凍るまえに、音楽が存在していた。他の藝術ジャンルも、音楽から派生したものと捉えられている可能性がある。音楽はもっとも根源的なジャンルなのだろうか。そうかもしれない。たしかに、音楽こそは、形式と内容とが渾然一体となった根源性をもっている。さらに、言葉もまた、音声から成り立っている。ギリシアの詩は、朗誦されたものだった。文学は、音楽によりかかっているといえなくもない。

だが、ヘーゲル Georg Wilhelm Friedrich Hegel (1770-1831) のように、音楽を、藝術のある程度発展したかたちと見なした人もいた。それによると、音楽は、象徴的藝術、古典的藝術にひきつづくロマン的藝術に分類されている(Vgl. „Vorlesungen ueber die Aesthetik“, Suhrkamp 613, S. 111 u. S. 121)。

音楽と絵画、どちらが根源的なのだろう。いいかえると、聴覚と視覚のどちらが根源的な感覚なのだろうか。いままで挙げた例からすると、どうやら、聴覚のほうが視覚に先んじていると見なす人が多いようだ。カンディンスキー Wassily Kandinsky (1866-1944) のように、作品を制作する際に、音楽を意識していた画家や、ホイッスラー James Abbott McNeill Whistler (1834-1903) のように、自作に音楽にまつわる題名をつけた画家もいる。

でも、絵画を観ていて、音楽が流れてくるなんてことはないだろうか。たとえば、モネを観て、どこからか、やわらかなピアノの音が聞こえてくるなんてことは。もし、そういうことがあるとすれば、(すくなくとも、私には経験がある)、音楽の根源性は、見直されなければならない。

音楽を聴いて特定の絵画を想起する。あるいは、絵画を観て音楽を連想する。こうした事態が意味するのは、おそらく、音楽と絵画が、ある共通の基盤のうえにあるということだろう。音楽と絵画が、まったく別の領域にあるなら、両者のあいだに、類縁性は成立しない。だから、このふたつの藝術ジャンルは、共通の基盤のうえに存在しているはず。そして、この基盤が担っているのは、聴覚や視覚といった感覚だから、やはり、感覚でなければならない。つまり、諸藝術の類縁性を成り立たせている感覚、聴覚や視覚の土台となる感覚があるはず。さらに、この感覚、基盤なのだから、他の感覚よりも、根源的でなければならない。すなわち、私の素朴な疑問は、「藝術と呼ばれるものが依拠している根源的な感覚はなんだろう」という問いになる。

*らぷさんのコメント(7月3日)を参照。


(つづく)
by kalos1974 | 2005-07-04 20:24 | すこしまじめな考察
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