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「責任」の欠如

11月7日(月)

昨日は京都で研究会。ずいぶんご無沙汰してしまった先生方と再会。ある先生に「日本には慣れた?」と訊かれたので、正直に、「西欧は罪の文化といわれ、それがまだ生きています。『神さまがごらんになっているから』といって、自分を律している人が多いです。日本は恥の文化といわれますが、恥をかくことに抵抗を覚えない人が増えました。むかしは、『世間に顔向けできない』なんていう言葉もありましたけど、いまは『世間』が機能していないですね。なんでもありの国におもえます」といったら、「日本は責任をとらない社会やから」と、靖国の話をされた。

先生と私の意見はほぼおなじ。

十五年戦争で日本だけがわるかったとはおもえない。東京裁判で正義がおこなわれたともおもえない。

しかし、では、誰があの戦争に責任があるのか? なぜ300万人以上が殺されるようことになったのだろう? 日本人が、戦争指導者を、自分たちで裁いたことがあっただろうか・・・? 東京裁判を非難する人たちも、この点になると、沈黙する。責任の所在はあいまいなまま。全体責任という人もいる。聞こえはいいが、要するに、だれも責任をとらないということ。

小泉「首相」の靖国参拝に近隣諸国から非難があつまっている。

念のために書いておくと、中国や韓国は、日本人が戦没者を慰霊することに対して文句をいっているのではない。戦争の被害者を悼む気もちは万国共通。両国といえども、そんなことに難癖をつけたりしない。

問題は、戦争指導者の合祀。日本は、サンフランシスコ平和条約で、東京裁判を国際的に受け入れた。つまり、戦争犯罪人をみとめた。A級戦犯たちによって、戦争が遂行され、おびただしい数の人間が殺されたことを反省したわけだ。

なのに、その責任者が神社に祀られ、首相が頭をさげる。

靖国に参拝したいのならば、まず、東京裁判を吟味しなければならない。そして、もし不満なら、自分たちの手で、「戦争がなぜ起こったのか?」、「責任者はだれなのか?」、「甚大な被害をあたえた国々にどう接していけばいいのか?」といったことに、答えていかなければならない。そのうえで、日本人の出した結論が国際的にみとめてもらえるように努力する必要がある。

そうした手続きをとらないで、いきなり、首相が戦争犯罪人を詣でる。「シュレーダーがヒトラーの神殿を参拝する」のとおなじくらいの衝撃を、世界にあたえていることに気づかないのだろうか? そんなことをしているのに、国連安保理の常任理事国に立候補したって、門前払いされるのが関の山だ。「理屈の通じない国には、拠出金だけお願いしたい」となるのは当然。

マスコミは、こんなごく当り前のことを報道しない。反日デモの激しさをとりあげて、われわれに妙な愛国心を植えつけたり、中国や韓国の歴史教育がおかしいとあげつらったりする。しかし、他の国に文句をいうまえに、自分の脇を固めておかなければ、どうしようもない。

「適当に頭をさげておけば水にながしてくれる」とか、「そのうちわすれてくれる」などという考えは、「罪の意識」も「恥の意識」もない国でしか通用しない。


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by kalos1974 | 2005-11-07 17:06 | 日記
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