7月23日(土)
映画は、フルトヴェングラーを訴追するよう命令された少佐 Arnold を中心に展開する。この人、音楽についてはなにも知らない。頭にあるのは強制収容所の光景。とにかく、非人道的なことをしたドイツ人が許せない。ナチ政権下で積極的に抵抗運動をしなかった人間はみな犯罪者だとおもっている。フルトヴェングラーが、かつてヒトラーのまえで指揮をしたことがあると聞いて、この指揮者を徹底的に追及しようとこころに決める。 少佐のオフィスに呼びつけられたフルトヴェングラー博士 Dr. Furtwängler 。なぜ自分が「ナチ協力者」の疑いをもたれているのかわからない。危険を顧みず、ナチの藝術政策に反対したではないか。ナチの敬礼をしたこともないし、ユダヤ人を裏切ったこともない。祖国を捨てられなかったことが、それほどの「悪」だというのか。しかし、少佐は容赦しない。廊下で長時間待たされ、くたびれきった藝術家に対し、椅子さえすすめない。そして、「お前のように優遇された指揮者が、ナチの党員でなかったはずがない。さっさと党員番号をいえ」とせまる。 フルトヴェングラーは、あまりにも、藝術家でありすぎた。しかも、教養主義の伝統のなかで育った人。父のアドルフはミュンヘン大学教授で、美術史学・考古学の功労者、母方はブラームスと交際のあった一族。幼いころから、知識階級にふさわしい教育をうけてきた。藝術や学問は政治とは関係なく、それ自体で、かけがえのない世界をつくっていると考えている。頭のなかにあるのは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴァーグナー、ブルックナー、・・・。 少佐は、もちろん、フルトヴェングラーのそうした背景を知らない。ドイツにのこったのだから、ナチにちがいないと信じて疑わない。 少佐の副官、 Wills はドイツで育った人。自分がユダヤ人ということもあって、フルトヴェングラーが、多くのユダヤ人を助けたことに感謝している。しかも、幼いころ、フルトヴェングラーの演奏を聴いたことがあって、あのような藝術家がナチであるはずはないと考える(メニューインが重ねられているのかもしれない)。Wills は、少佐が藝術家に対してあまりに無礼な態度をとることに憤り、ドイツ人秘書の Emmi とともに、フルトヴェングラーに有利な情報をあつめはじめる。そして、ふたりは恋に・・・。 当時の状況をしらべればしらべるほど、フルトヴェングラーに有利な情報しか出てこない。フルトヴェングラーの音楽が、非常時の人々にとって、どれだけなぐさめになったか。それどころか、抵抗運動を支えるものであったか。しかし、少佐は、ヒトラーのまえで指揮した人間を許せない。強制収容所の光景が頭からはなれないのだ。ナチ政権下で苦労したドイツ人がいたことに思いをはせる余裕などない。「ナチの反対者なら亡命したはずだ! 」。単純な正義を押しつける仕方は、現代のアメリカを見ているようでもある。 少佐の追及は、だんだん、本筋からはずれていく。「私生児がいたから亡命しなかったんだろう? 」とか、「若い指揮者にとってかわられるのが嫌だったんだろう? 」とかいった尋問。フルトヴェングラーは激昂するが、次第に、自分が亡命しなかったことの影響を悟りはじめる。「たしかに、私は何人もの人を助けたが、自分がドイツにのこったことによって、数倍もの人を死に追いやったかもしれない・・・」。20世紀という時代、もはや、藝術は政治とは無縁でいられなくなっていた。丸山真男も指摘しているように、この点で、フルトヴェングラーは、誤りを犯したのだった。 フルトヴェングラーの悲劇は、第一に、かれがドイツ音楽の正統な後継者であったこと。この指揮者は、自分はまず作曲家であると考えていた。当時流行していた新しい音楽観から、伝統的な音楽を守ることが、その任務だった。祖国と藝術を切りはなして考えることなど不可能。たとえいま暴力が猛威をふるっているにせよ、永遠ということはない。しかし、藝術は永遠なのだ。たしかに、家族や仲間のこともあった。しかし、それとおなじくらいに、「ドイツの」音楽を守らなければならなかった。そんなフルトヴェングラーにとって、亡命は単なる逃避にすぎなかっただろう。 そして第二に、スターだったこと。ナチに協力した藝術家はたくさんいた。さきにふれたようにカラヤンはナチが政権をとるやいなや入党したし、リヒャルト・シュトラウスは党員ではなかったが、音楽院の総裁(副総裁はフルトヴェングラー)として、積極的にナチの祭典に出席しつづけた・・・。しかし、当時のカラヤンには矢面に立たされるほどの名声はなかったし、リヒャルト・シュトラウスは老人すぎた。スターはとにかく槍玉にあげられる。戦後アメリカで起こった反フルトヴェングラー運動に火をつけたのは、フルトヴェングラーがアメリカにくると自分たちの人気がなくなってしまうとおそれた同業者たちだった・・・。 この映画、藝術と政治という問題に、鋭く切り込んでいる。4人の役者の演技は巧く、緊張感もある。けれども、映画というより、お芝居を観ている感じがした。おもな舞台は少佐のオフィス。あまりあちこち移動しない。音楽家を描いているのに、挿入される音楽はすくなく、ワンパターン。《運命》ばかりだとつらい・・・。フルトヴェングラーがいかに苦労し、人々のために尽力したかといったことも、ただ語られるだけ。感動的な回想シーンをおりまぜれば、効果的だったのだが、そういうこともない。無駄なものを切り落として主題を先鋭化させたともいえるが、映画的な魅力には乏しいともいえなくもない。
by kalos1974
| 2005-07-24 05:43
| すこしまじめな考察
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