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逆カルチャー・ショック ・・・ それとも、単なる毒舌? その2

9月6日(火)

「ケルンだより その2」の tamayam さんが、「ふわふわした表現」という記事を書いておられた。同感することしきり。

たしかに、日本では、曖昧な表現が横行しているようだ。言葉は丁寧なのだが、なにをいいたいのかわからない。どうやら、用件や意見があるというより、漠然と、雰囲気をつたえたいだけらしい。そんな「押し売り」をされても、どう反応していいのか、当惑してしまうのだが。

婉曲表現は、言語文化の成熟を示してはいるだろう。しかし、明確な内容もないのに、婉曲表現というか、曖昧なものいいをされるので、つい、「この人、馬鹿?」などとおもってしまう。

私は、ドイツの田舎に滞在するのが好きで、これまで4回ほど、ゲーテ・インスティトゥートという語学学校にかよった。午前中の4時間はドイツ語の勉強。たまにおなじクラスに日本人のいることがある。独文科の学生などは、当然、文法はとてもよくできるのだが、授業中ずっと黙っている。はじめは、日本人独特の「謙虚さ」かとおもっていたけど、どうやら、そうではないらしい。いろいろ話を聞くと、話すことがないらしいのだ・・・。

中級3~上級のクラスでは、政治や社会の問題、環境意識、文化などがテーマになる。こういうテーマ、日本の若者にとっては、鬼門だ。たとえば、 カンディンスキーが話題になっても、黙っている。知らないから。シューベルトを知らない某有名大学生もいた。ドイツのことを知らないのは、まだ仕方ないとしても、「では、日本国民は、アメリカのアフガニスタン侵攻に対して、どうおもっているのか?」などと問われたら、お手あげ。知らないから。「日本の作家で、こういう意義のある人はいるのか?」と訊かれても、したを向く。知らないから。

ドイツまでいって、ヨーロッパ文化を学ぼうとおもっている若者でさえ、あまりにも、ものを知らない。知らないことについて考えることはない。だから、思考力も育たない。不思議なのは、恥ずかしいおもいをしたのに、レーンバッハ・ハウスにいって、カンディンスキーを観ようとしないこと。最近は、「知らない」のは、恥ではないらしい。

曖昧な表現の裏側には、知的好奇心の衰退が隠れているのではないか。メールにしても、議論にしても、確固とした意見を、曖昧表現でくるんでいるのではない。そもそも意見がないのだ。でも、自分の気もちや雰囲気だけはつたえたい。なので、妙に「ふわふわした表現」がいきかうことになる。帰国してまだわずかしか経たないが、そんなふうに考えている。
by kalos1974 | 2005-09-06 19:40 | 日記
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